北野今昔ものがたり >

スーパー出店阻止闘争16年の軌跡

スーパー出店阻止のデモ行進

昭和48年北野白梅町交差点、高津商会倉庫跡に大阪のスーパーイズミヤ出店の計画が持ち上がった。

昭和40年ごろから全国各地で大型スーパーが進出、近隣商店街はあっという間に席巻されていった。

それまで北野には高尾、御室、花園、金閣寺方面からのお客さんも多く、これは一大事と早速行動派リーダーの下、反対闘争本部を立ち上げる。地元の行政担当者や通産省にも陳情を行なうが、京都は全国の中でもまだ大型店の小売シェアーの比率がもっとも低い都市の方だと一蹴される。

署名運動、地域でのプラカードをもってのデモ行進、連日・連夜の作戦会議、商店街の理事会は延々と深夜に及ぶ・・・・・。

賛成側の消費者団体、建設業者、それを取り巻く利権に群がる輩や団体、それまで申請から出店まで所定の手続きさえふんでいけば、あっという間にビルが出来、テナントは地元有力者、協力商業者によって埋まる・・・その構図がすんなり行かないと見るやリーダーたちの1本釣りをねらって、夜討ち朝駆け、大金の誘惑、果ては脅しに掛かってくる始末。さすがにこの時ばかりはこわもてのリーダーたちも身の危険を感じること1度や2度ではなかったと・・・・・にがわらいの後日談。

消費者代表、学識経験者、商業者代表、行政側代表・・・・・が集まって出店を審議する商調協、ここでは少数の商業者意見はほとんど通らない。結論が出なくても回数を重ねることによって自動的に審議打ち切り、建設許可が降りると言うパターンが出来レースであった。

スーパー出店阻止・最後の抵抗手段

非力な我々に出来る最後の抵抗手段は会議の開催を阻止すべく、商調協の舞台となった商工会議所の入り口を封鎖することしかなかった。その会議の招集日・時間をキャッチするとすぐさま行動隊は前もってプラカード、拡声器を用意してグループ別に各入り口を封鎖の実力行使に出た。

あるときは朝早くから、又あるときは年末の商売人にとって一番忙しい大変なときに、相手も手を変え、品を変えてゆさぶってきた。それでも早朝の対応のためにはと・・・号令一下、前夜から全員毛布持参で泊り込み、冷え込むコンクリートの上に雑魚寝で語り合うと言う・・・・つらかったが今となってはなつかしい思い出となった。もちろん我々、商店街サイドも一筋縄では行かない、こんなこといつまで続けていても・・・・と反対するものも現れ、口角泡をとばし、侃々諤々大いにやりあっている。

「トイザらス」のアメリカ政界での執拗なロビー活動による押しの一手で「日本国内の規制緩和第一号」として日本政府の国策の一環として無理やりに進められた出店手続きのため、結局イズミヤは社長以下幹部が土下座の恥をかいて出店し今日に至っています。・・・ただ出店計画から16年間阻止して来たという事実、実績、この間の組合員の固い結束・・・これは何にもまして得がたい収穫であった。簡単に協力金やテナント優遇などのアメで出店を受け入れ、共存共栄路線と吹聴した商店街でその後がどうなったかは言うまでもない・・・・・。

また我々にとっても消費者の心、ニーズをしっかりつかみ、あのときの団結力、意思疎通、行動力・・・・あのエネルギーをもう一度というのが理想なのだが・・・・・